Complete text -- "after hours 1"

20 June

after hours 1

飛ばずにイスタンブールを断念したのには、いくつか理由がある。
だが、済んだことはもういい。

中央アジアを抜けて陸路でトルコまで行こうという試みが、タシュケントーイスタンブール間のわずか4時間のフライトであっさりと終わってしまった時、僕は旅のテーマを失った。
その後の東欧での日々はおまけの後日談のようなものだ。
それでも、延々と、非ドラマティックに、アンチクライマックス的に、旅は続いて行く。
マイトリップキャリイズオン、僕はその頃、会う人ごとにそう言っていた気がする。


その日、スルタンアフメットにほど近い安ホステルのテラスで、マルマラ海から吹きつける冷たい夜風に震えながら、僕らはビールを飲んでいた。相部屋のクリスティアンは今日が30歳の誕生日。明日には旅を終えてドイツへ帰ってしまうというので、ささやかなパーティーが催されていた。
同じく相部屋のスーヤンが、寝ようとしていた僕をテラスまで連れ出したのだ。
彼の為にお祝いのギターを弾いてあげて欲しいということだった。

ここからプラハまで行くつもりだと言うと、彼はドイツ人らしい生真面目さでヨーロッパの旅について講釈を始めた。

プラハまで安く行く方法があるよ。
乗り継ぎのやり方とか、チケットの買い方とか、いろいろとコツがあるんだ。
まずブカレストまで列車で行って…。

しかし僕は話をほとんど聞いていなかった。
いや、聞いていたのかもしれないが、頭に入らなかった。
フライトは夜明け前だったし、アルコールも回っていたし、久々に人前で真剣に楽器を弾いた後で頭がぼおっとしていた。
その晩クリスやスーと何を話したのかほとんど覚えていない。

翌朝、頭のおかしいインド人が部屋中うろうろ半時間も盛大に歯磨きをしやがったおかげで、僕らは朝寝ができなかった。
権利意識の高いクリスがレセプションへねじ込んだが、無駄だった。
安宿のドミトリーで、しかもトルコみたいな所で安眠権を主張したところでしようがない。

僕は宿を移り、クリスは故郷へ帰った。
きちんとお別れができなかったのだが、彼はスーに手紙を託していたようだ。
「親愛なる日本のミュージシャン殿」と題されたその手紙には、プラハまでの道程が半ば偏執的に細かく書き込んであった。

イスタンブール22:00出発 
ブカレスト翌17:09着/乗り換え 
アラド10:48着 

アラドからはバスでNadlac Vamacaまで行き、そこからヒッチハイクで国境手前の町、Nagylakへ(ここで時計を一時間戻すこと)。
Nagylakからブダペストまでは列車がたくさん出てる。ブダペストからブラチスラヴァへも多分安い列車がある。
ブラチスラヴァからプラハへは直行のユーロシティに乗らない方がいい。鈍行で国境のBreclavまで行ってスロヴァキアに入る。
通常ブラチスラヴァでは15分停車するから、その間に切符を買いなおせば同じ列車でプラハまで行ける。
いずれにしても、前もってスロヴァキアの時刻表を調べておいた方がいいよ。

クリスの厚意は嬉しかったが、正直言って頭がくらくらした。
さすがにドイツ人パッカー、根性の入り方が全然違うのだ。
僕は彼のスパルタンなアドバイスをまったく無にして、ブダペストまでの通しチケットを買った。


シルケジ駅22時発の列車に間に合うように21時前には宿を出る。
トラムのジュトンを買うだけの小銭を残して、トルコリラはあらかた使い切ってあった。
チェンベルリタシュ、スルタンアフメットのあたりはここ数日トラム線の工事が続いていた。アスファルトが掘り返されて、線路がむき出しになっているのだ。
トラムがやってくる方向をぼけっと眺めていたその時、一台の車が、その路上に突き出た一対の鉄の塊に乗り上げた。
えらく派手な音をたてて、車の部品が左右にばらばらと飛び散る。
そこらへんにいたトルコ人のおっさん達は全員点目になった。一瞬の間。虚無。
それから、こりゃ大変じゃあ!とかなんとか叫びながら、その気の毒な車のまわりに一斉に群がる。野次馬根性丸出しだ。
助手席には若い女の姿。
デートをここまで悪くない雰囲気で進めてきて、さて今からどこかへしけ込もうかという矢先のことだったのかもしれない。
車はクラッシュ、完全に立ち往生。あんたってサイテー。
可哀想になあ、とちょっと思う。

車がトラム路線をふさぐ形になってしまったので、僕は仕方なしにシルケジまで歩いた。荷物が肩に食い込み、汗がどっと吹き出る。
トルコリラがないから、ドルムシュに乗ることもできない。
そういえば、先日もスルタンアフメットの狭い裏路地で、メトロ社の大型バスが路肩の鉄柱に鼻先をぶつけるのを目撃した。
ぶっ飛んだ鉄柱の頭が坂道をころころと転がり、バスのバンパーには大穴が空いた。
ドライバーは蒼白になり、アテンダントは頭を抱えていた。諸行無常。
うわあ、やっちまったなあ。半年間ただ働きかなあ。他人事ながら心配になる。

列車は半時間ほど遅れて発車。
ブダペストへは明後日の早朝6時着予定とあるが、そんなもん時間通りに着くはずねーだろ、という確信めいた予感があった。
僕はアジア及び旧共産圏(中国を除く)の交通機関におけるパンクチュアルネスをまったく信用していない。
列車もバスも飛行機も、何かしらの奇妙な理由によって決して時刻表通りには運行されない。
ブカレスト17:09着という数字も、一体何を根拠に示されているのかよくわからない。

明け方前、まだ暗い内にトルコ出国。
寝ているところを起こされて、パスポートコントロールの詰め所まで出向く。寒い。
出国手続きが終わってまどろんでいると、今度はポリ公が乗り込んでくる。ブルガリアの入国審査だ。
どこへ行くのだとか、目的はなんだとか、お前は学生かとか、いちいちうるさい。
係官達の話す言葉はロシア語に似ている。
反射的に胸クソ悪くなるのは、旧ソ連の旅でロシア語アレルギーになったからだ。二度と行かねえぞクソッタレめ。

次に目覚めた時、外は見事に晴れ上がっていた。にっぽん晴れ。いや、ここはブルガリアだけどね。
延々と続くなだらかな緑の丘陵地帯。牛や馬、羊の群れ。典型的なヨーロッパの車窓風景である。
腰の具合を考慮して、二等寝台100ユーロを奮発した。他に乗客はいないので、コンパートメントを一人で占有。ラッキーだ。
日本人宿で持たせてもらった昆布のおにぎりをほおばる。うむ、うまし。
列車の旅はやはりこうでなくては。

読書をしている内に、またうとうとしてしまった。
気がつくと列車は停まっている。
ここはどこだろう。ゴルナオリョホビッツァかな?だとしたらルーマニア国境はもう近い。
以前に一度訪れているので、今回ブルガリアとルーマニアは素通り。チェコまで出て、そこから周辺諸国をぐるっと回るつもりだ。

列車は小一時間も停車していただろうか。この意味不明な長時間の停車もよくある現象だ。
結局ルーマニア国境を通過したのが17時過ぎ。
ほらな、ブカレストに17:09に着くってどこの話だよ?
19時半頃になって、大きな河を渡ったあたりからようやく車窓の風景が変化し始めた。首都圏内に入ったらしい。

車掌にこの後どうすればいいのか訊くと、19時半のアラド行きに乗り換えろと言う。
おいおい、19時半って今だろうが。
さあ?この列車が着くまでは待っててくれるんじゃないかなあ?と車掌さん。
まあそんなもんだろうな、と僕も思う。なにしろトルコとルーマニアを結ぶ鉄道だもんな。万事そんな調子なんだろう。
隣のコンパートメントにいたイラン人もしきりに心配ナイ心配ナイ、と繰り返した。

15分後にブカレストへ到着。列車内にいた乗客がぞろぞろと乗り換え移動。確かにアラド行きはまだ発車していない。
僕はこの後、東欧各所でことごとく列車の遅延に見舞われることになるが、それもむべなるかな。
各駅で5分ずつでも遅れていけば、すぐに30分、1時間の遅れとなる。
特に長距離を走るインターシティなり、ユーロシティなりを待つ際は、心に大きなゆとりが必要だ。絶対に時間通りに来ないからね。

アラドへはさらに夜行の距離。ルーマニアは思った以上に広大な国だ。
僕の買った寝台券はブカレストまでしか有効でなかったのか、新たに寝台料金を求められた。
30ユーロね、と車掌。財布にはトルコリラから両替した20ユーロしかない。
そう申し出ると、じゃ20ユーロでいいよとのこと。ただし、車掌室の寝台に寝てね。
ふうん、そんな特殊寝台もあるのか。というか、その金あんたの懐に入るんじゃないのか?まあどっちでもいいけど。
枕がないので、セーターを丸めて頭の下に敷いて寝る。

翌朝早くアラドへ着く。やれやれ、30時間も走ってまだルーマニアなのか。
さらに普通列車に乗り換え、ブダペストを目指す。
6時にブダペストに着くって、どこのどいつが言いやがったんだ?
ハンガリー入国時にも一応パスポートチェックはあったが、一瞥しただけでスタンプはなし。EU圏内に達したということだ。
時計の針を一時間戻す。

11時頃にようやくブダペスト東駅に到着。
その昔、ウィーンから半日だけ遠足したことがある。
それも観光目的ではなく、オーストリア国内でどうしてもキャッシュカードが使えず無一文になり、お金を下ろす為に、というような理由だった。
ウィーン中歩き回ってATMを探したのだが、なぜか全部同じ銀行のもので、オプションというものが一切なかった。
丸一日以上何も食べられなくて、ものすごくひもじかった覚えがある。
あの時は駅の構内に貧しい身なりの立ち売りが並んでいた。
両手に靴下を一足ずつ持っているだけのおばさんとか。あれで商売になるのかなあ?と心配になった。
出入国の審査も結構厳しかった。越境地点には軍服を来た連中がうろうろしていて、なかなかに物々しい雰囲気だった。
おお、ここに東西冷戦の残滓があるなあ、と感慨深かったものだ。
あれから十年、時代は大きく変わった。

さっそく宿の客引きに声をかけられる。
冷戦、そして激動の時代をたくましく生き抜いてきたといった感じのお婆ちゃんだ。
手渡されたチラシには日本語の惹句が並ぶ。交通至便、設備充実、格安滞在、ブダペストのお宿はヘレナハウス。
ヘレナハウスという日本人宿があるという情報は既にイスタンブールで得ていた。
有名な老舗なのだが、従業員の手癖が悪く物がよく無くなるということや、最近新しく出来た日本人宿に客が流れてしまい、そのニューカマーを激しく敵視しているというようなことも僕は知っていた。
おそらく彼女がオーナーのヘレナ本人なのだろう。

せっかくだけど、今日の夜行でプラハへ行くのです。でも遠からず戻ってくるから、その時にお世話になりますよ。
あらそう。じゃあ待ってるから、次はうちにお泊まりなさいね。気をつけて行ってらっしゃいな。

プラハまでの夜行列車は寝台なしの二等クシェット席で、なんと17000フォリント。70ユーロもする。
イスタンブールからプラハまで、移動だけでしめて190ユーロ。
移動費含め諸物価が高い高いと聞かされてはいたが、これほど酷いとは思わなかった。
ここはもうヨーロッパなのだなあ。一日の予算が15ドルなんて牧歌的な時代は終わったのだ。

ブダペストで半日暇潰し。
なるほど、ダニューブ河にかかる鎖橋からの光景はさすがに美しかった。ドナウの真珠と呼ばれるだけはある。
でもそれだけ。

昔はこうではなかった。ヨーロッパでもアジアでも、退屈極まるオセアニアにおいてさえも、見るもの全てに感興をそそられた。
一瞬一瞬がカルチャーショックの連続ですらあった。
僕は知らぬ間に好奇心をすり減らし、感受性を摩耗させ、歳を重ねてしまったらしかった。
少し淋しい気持ちになる。
シルクロードで味わった、時が止まったのかと錯覚するほどの一瞬の訪れは、本当に本当に特別なものだったのだ。
これから先、あんな気持ちになれることは果たしてあるだろうか。

夕方前から段々と雲行きが怪しくなり、急速に天気が崩れ始める。
食料を買い込んで、少し早めに駅へ向かうことにする。
駅舎に着いたところで、叩き付けるような激しい雨が降り出した。滑り込みセーフ。
僕は自分でも呆れるくらい間の悪い雨男だが、たまには濡れずに済むこともある。
今日という一日の中で起こった、ほとんど唯一のささやかな幸運。

遅れるだろうなと思っていたら、やっぱり遅れた。プラハ行きICは実に30分遅れで出発。
いつまでたっても電光掲示板に発着プラットフォームの番号が表示されない。
20分遅れます、いややっぱり30分遅れます、結局いつ来るかわかりません、ごめんなさい、というような意味の放送が繰り返される。
まあ、アナウンスがあるだけアジアよりはましだとも言える。
インドのデリーからアグラへ列車で行った時などは、特にこれといった理由もなく3時間も途中停車した。
アナウンスも一切なし。酷暑期の太陽がじりじりと照りつけて、車内はさながら走るサウナの様相を呈していた。
あ、いや、走ってないな。停まるサウナか。

幸い乗客は少なく、クシェットの一列を独占してごろんと横になれた。プラハへは明朝7時着。

東欧の旅は始まったばかりだ。
















08:35:27 | ahiruchannel | |
Comments

beautiful-hair wrote:

文章の勢い、というかものを語る語り口がすっかり変わってますねぇ。あくまでも淡々と、深夜特急のヨーロッパ編もそんな風だったような。熱気と好奇心とトラブルへの対処のためエネルギーを費やして、ちょうど気球からガスが抜けるように、ゆっくりと降下して行く、とでもいうか。
非日常が日常化しちゃったのかな。
ま、よく言えば落ち着きを見せている、という事だけど。
次回に期待。
06/20/08 15:02:45

ahiruchannel wrote:

>>beautiful hair

まあね。ヨーロッパの旅は良くも悪くも予定調和的というか…。
東欧の旅もシリーズで何編か続きますので、気長に待っててくださいな。
06/21/08 15:11:33
Add Comments
:

:

トラックバック
DISALLOWED (TrackBack)