Archive for May 2009

25 May

旅に棲む日々 2

パキスタンを旅したのは911テロの翌年の秋の事だった。

大量破壊兵器を隠し持っているから、という理由で米軍はイラク近辺に着々と軍備を展開させつつあり、きな臭い空気が遠くパキスタンにまで漂ってくるようだった。

当時の日本では(今もそうかもしれないが)マスコミの偏向放送のせいで、イスラム国は危険だというイメージが一般的だった。
パキスタンやイランへ行くと言うと、多くの人が危ないから止めろと言い、パキスタンやイランへ行ってきたと言うと、多くの人が危なくはなかったのか?と訊いた。

なるほど、そう言えばパキスタンでは最後まで外国人旅行者というものをただの一度も見かけなかった。

インドの西端、黄金寺院で有名なアムリットサルまでは確かに溢れ返っていたバックパッカー達が、パキスタン側のラホールに移動した途端に忽然と姿を消したのだ。
世界中どこにでもいるドイツ人やイスラエル人、日本人はもとより、世界一暇なオーストラリア人、なぜかバックパックに自国の国旗を縫い付けているカナダ人など、とにかくよその国では必ずと言っていいほど目にする各国の旅人が一人も見当たらない。

パキスタンは観光向けの国ではないし、観光用のインフラもまるで整ってはいないのだが、これはちょっと不気味だった。

かの国ではネットカフェを一軒も見つけられず、イランのイスファハンに辿り着くまでしばらく日本との連絡が途絶えたのだが、あと一日メールが遅れていたら家人に大使館に通報されるところだったという話や、移動中のバスで知り合った行商人グループのカシラみたいなおっさんが、お前は日本人だから歓迎するけんど、もしアメリカ人だったら後ろからズドンと打たれとるわなと言って、周りの連中がんだんだと深くうなずき、はははと頬を引きつらせながら笑ったというような話もある。

だが、パキスタンの旅は快適だったとは言い難いが、危険ではなかった。
当たり前の事だが、テロやら誘拐やら爆破やら、そんな事はどこの国であれ滅多やたらと起こるものではない。
僕が心配していたのは、ガチホモが多いと評判のラホールで、忍者屋敷みたいなゲストハウスの壁が夜中にくるりと回転して、侵入してきた髭面の大男にねじり込まれてしまいはしないかと、その一点だけだった。


僕はラホールに数泊した後、バスで国を真横に走りぬけ、イランとの国境にほど近いクエッタへと至るルートを採った。
ラホールのバスターミナルで夜行切符を買う。
切符売り場のオヤジの話では、一晩走って翌日の午前中にはクエッタに着くよという事だったが、もちろんこういう国で物事が予定通りに運ぶはずはない。

20時に発車するはずのバスは待てど暮らせどやって来ない。同じバスで西を目指すというおっさんとクエッタ行きはまだかいなまだかいなと言い続けながら、四方山話で時間を潰した。

この人はなかなか英語が達者だった。

パキスタンとインドは仲が悪いとされているけれど、本当はそうではないんだよ。
我々はもともと一つの家族なんだ。我々はインドの人々を深く愛している。でも、あっちが我々の事を嫌いなんだ。だからどうにも仕方がないよね。


ほうほう。


ただね、インドの人達が信奉しているヒンドゥー教だけど、あれは私に言わせれば宗教なんかではない。断じてない。
何と言ったかな。ほらよくあるだろう?
黒猫が前を横切ったら不吉なことが起こる、というような。


迷信?


そうそう。そういうものの集積で成り立っているんだ。とてもプリミティブだ。


ふうむ。


とかなんとか、そういうことを話しながら待つこと3時間。ようやくクエッタ行きのバスが到着。

ラホール発のはずなのに、車内はなぜか満席。
全員が煙草をもうもうとふかし、打ち捨てられた吸殻、バナナの皮や木の実の屑などが床に散乱している。

ごく控えめに表現して、拷問のような車内環境だ。

バスは走り出したと思ったらすぐに街道脇に停車し、警官が乗り込んで来た。全員のIDチェックが済むと、続いてTVの撮影に使うようなうすらでかいカメラを担いだ男が入ってきて、乗客一人一人の顔を念入りに写してゆく。
何だろう。バスの爆破テロが起こった時の為に証拠映像を残しているのだろうか?

この時点で時計の針は深夜0時近かった。

その後、バスは小一時間ほどのろのろと走ったが、またまた停車。エンジンが切られ、乗客もぞろぞろと降りてしまった。
先ほどのおっさんを見つけて声をかけると、エンジンのトラブルだと教えてくれた。運転席横の床パネルが開け放たれ、数人の男たちが口々に何かを言い合いながら、エンジンをいじっている。

車体のコンディションくらい事前にチェックしておけよな、と思いつつさらに2時間ほどが無為に流れ去る。

何度かうとうととして、空が白み始め、車窓の景色が全く違っていることに気づいた頃にバスはまた停まる。
乗客は全員降車。めいめいが水場に腰を下ろし、靴を脱いで足を洗い始めた。
水場の先には大理石が敷き詰められた広い台座のようなものがしつらえてあって、そこで男たちが頭を垂れたり、額を床に押し当てたりしている。

清冽な朝の空気の中、祈りを捧げる人々の姿が朝日に黒い影となる。
ほんの少し、彼らが羨ましかった。


結局、クエッタに着いたのは三日目の夜明け前だった。
バスは何もない平原をしばらく走って、河を越えたあたりでまた停まった。エンジンがやはり不調だったらしく、ラホールから応援を呼んでの大掛かりな修理は半日に及んだ。

行商人グループの車座に呼ばれて訊かれるままに色々と日本のことを話した。
リーダー格らしい男が、もし行きたいんならアフガニスタンに連れてってやるぞ、と冗談とも本気ともつかないようなことを言う。
でも今は情勢的にビザはもらえないでしょう?と訊ねると、ワシらについて来ればそんなもん要らんわな、うはははは、という事だった。
案外そんなものかもしれない。

この商隊のカシラはほとんど山賊みたいな風貌だったが、とても親切にしてくれた。
バスが停まる度にバナナや冷たいコーラを買ってくれたり、カレーを分けてくれたりした。
インドで人間不信に陥っていた僕は、親切にしといて最後に金を要求されたら厄介だなあなんて思っていたのだが、彼らはクエッタに着く前にさよならも言わずにどこかへ消えてしまった。

ワシには嫁が二人おってな、一人目は見合い婚だけど二人目は恋愛婚なんだわ。ほんでから子供は4人おってな。
目を細めながらそう話すカシラは幸せそうだった。




夜明け前に見知らぬ街をうろうろと歩き回っても仕方がないので、バスターミナルで日が昇るのを待つことにする。
長時間、ボロバスに揺られ続けて僕は疲弊していた。
おまけに、クエッタは高地にあるので朝晩はひどく冷える。

ぐったりとしてうな垂れていると、足元にチャイを満たしたグラスが置かれた。
見上げると、盆を抱えた頬の赤い少年が立っている。売り子なのだろう。

これを頼んだ覚えはないよ、そう告げる。
少年が顎で指し示した方には、見覚えのある二人連れがいた。

パキスタン人の一般的な民族服である白いシャルミーカワーズを着て、頭にはターバン状の布を巻き、顎鬚は白く長い。彼らも行商人の車座に加わっていたのだが、英語ができないのか、ニコニコとしているだけだったのだ。

その二人連れはにっこりと微笑んで交互に手を振り、それから大きな鞄を抱えて行ってしまった。少年も踵を返した。
僕は身をかがめてチャイグラスを取り、一口すする。
濃く、甘く、そして熱かった。

鍋に茶葉と牛乳と蜂蜜と生姜を入れて煮詰め、そして濾す。
イランから先ではチャイはいわゆるプレーンティーになるので、濃厚なミルクのチャイが飲めるのはここクエッタが最後の土地なのだ。


それは、僕が今まで飲んだ中で、掛け値なしに一番うまいチャイだった。
温かみが身体の隅々まで染み渡り、やさしく癒し、静かに心を打った。その一杯を飲んでしまった後では、僕はほとんど別人のように溌剌として、生き返ったような心地さえしていた。


大げさだが、たった一杯のチャイが世界のあり様を大きく変えることだってあるのだ。





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05 May

旅に棲む日々 1

イスタンブールの歴史的景観区の路地裏に、日本人ばかりが泊まる宿がある。

男女別になったドミトリはじめじめと暗く、便所は水が流れず、同時に二人がシャワーを浴びるとボイラーが死ぬ。
ベランダという物がないからしようがなくて地下の物置に洗濯物を干すのだが、そんな所に干しても乾く訳がなく、しまいにカビが生えたりする。

だが、最上階の共同スペースには日本語書籍と漫画本のなかなか立派なライブラリがあり、情報ノートの類も充実している。
宿代はスルタンアフメット地区では間違いなく最安値だろうし、ブルーモスクまで徒歩3分という好立地もありがたい。
宿泊者はほぼ全員が日本人パッカーなので、過酷な長旅で日本語の会話に餓えた者同士はすぐに意気投合する。
トルコ産のまずいビールを飲みながら旅とは何ぞや、人生とは何ぞやと暑苦しく語っちゃったりね。

オーナーは普段は宿には顔を出さず、長期旅行者が交代で管理人を務める。
僕が泊まった頃は女性が管理人だった。
皆彼女の事を「かんりにんさん」と呼んだので、名前は知らない。

この宿では物価の高いイスタンブールで少しでも滞在費を安くあげる為に「シェアめし」なる制度が導入されている。
材料費を参加者全員で分担し、自炊をする訳だ。費用はおおむね2〜3リラ。
街中の屋台でファストフードのドネルケバブを買っても5リラは取られる事を考えると、コストパフォーマンスは圧倒的に高い。
メニューは日替わりで、だいたいは管理人さんが献立を決め、調理も担当する。
共用冷蔵庫には本日の献立を書いた紙が貼り出され、参加したい宿泊者がそこへ名前を書き込み、代金を払う。
参加人数が多ければ当然飯は豪華になるし、逆に少なければつましいものとなる。


さて、初めてこの宿を訪れた日の献立は「カルボナーラ」であった。

僕はカルボナーラについては、というか、パスタ全般に関して一家言ある人間である。
レストランなんかで料金以下の半端な皿を出されると、俺が作った方がうまいよと呟くようなタイプの人間である。
冷蔵庫にはオリーブとアンチョビとケッパーとパルミジャーノを常時ストックし、麺は多少高くてもバリーラを選び、茹で時間を計るキッチンタイマーは秒単位でセットしてあるという人間である。
出されたパスタになーんも考えんとタバスコをぶっかけたり、テレビを見ながら麺を茹でてアルデンテのタイミングを見誤るような輩は地獄に落ちればいいと考える、そういう人間である。

その宿に荷を降ろした時には丸4ヶ月間パスタを口にしていないというコールドターキー状態の最中であり、ここで他人が作ったまずいパスタなんか喰わされて発狂したくないという強い思いが沸き上がり、差し出がましくもカルボナーラはわたくしめがお作りいたしましょうと管理人さんに申し出たのは極めて自然な流れであった事はご理解いただけると思う。


管理人さんは大喜び。
よかったあ、実はカルボナーラってどうやって作るかよく知らないんですよお〜。(なぜ献立表に書いたのだ?)
じゃあ買い物は私がしてきますので。何でも言って下さいね。

僕は絶句しかけたが、気を取り直して笑顔を作る。管理人さんは基本的に善の人なのだ。
任せてください。カルボナーラは得意中の得意ですから。


ご存知ない方の為に簡単に説明するが、カルボナーラとはベーコンと粉末状のハードチーズで作るソースを太めの麺に絡めていただくシンプルな一品である。
美味さの決め手はベーコンの脂と濃厚な味わいのパルミジャーノレッジャーノ。
これに卵黄を加え、クリームは使わないのが正当派ローマ風だ。仕上げに黒胡椒をぱらり。

パルメザンチーズと称して円筒形の容器に入っている粉チーズがあるが、どのレシピ本にもあれだけは絶対に使うなと書いてある。
必ずパルミジャーノレッジャーノか、ペコリーノロマーノを使いましょう〜云々。ベーコンもできればイタリア産のパンチェッタが好ましい。
僕は別に権威主義者ではないが、カルボナーラに関してはこれは全くの事実だ。
上等のベーコンとパルミジャーノがないと、この料理は成立しない。


何を買いますかあ?とメモの準備をする管理人さんに、僕はご託宣をたれる預言者のようにおごそかに告げる。

「まず、ベーコンのブロックを…」

「あ、それはありません。トルコにベーコンはないです」



乾いた一陣の風が僕と管理人さんの間を吹き抜けた。



イスラムの国ですからねえ〜、と彼女はあくまでにこやかに言う。

「代わりに鶏肉でもいいですかあ?」この人は善の人なのだ。僕はしばし言葉を失う。

カルボナーラはベーコンがないと成立しない。僕のプロットはいきなり破綻をきたした。


「えと、それではパルミジャーノレッジャーノというハードタイプのチーズ…」

「それもきっとないと思いますよお。代わりに白チーズでいいですかあ?」


「あの、えと、じゃあ、フェットチーネと申しまして、平麺なんですけど…」

「ロングパスタは高いんですよお。一人2リラだと予算オーバーだからマカロニでもいいですかあ?」


「………」



僕があほうのように口を開けて完全に沈黙してしまっても、管理人さんは微笑みを絶やさない。
繰り返すが、この人は善の人なのだ。
悪気は、まったく、ない。


結局、要求した食材で用意された物は卵とオリーブオイルだけだった。

僕は力なく鶏肉に大蒜の香りをつけてソテーし、それにすり下ろした白チーズと卵黄を混ぜ、茹でたマカロニにかけた。
自分の作ったものが一体何なのか全くわからなかったが、それは「カルボナーラ」として宿泊者に配られたのだった。
信じ難い事に、みな口々にうまいうまいと言ってそれを平らげたのだ。それは余計に僕を脱力させた。


翌日、献立表には「ペペロンチーノ」と書かれてあった。
僕は絶望的な気分でその文字を眺め、しばし天を仰いだ。

気配を感じて振り返ると、管理人さんが目を輝かせて僕を見つめているのであった。

02:37:04 | ahiruchannel | 4 comments |