Archive for October 2008

26 October

景 7 紛争跡地


モンテネグロ・コトル 「聖堂」


モンテネグロ・コトル 「牧師」


モンテネグロ・コトル 「土曜市」


モンテネグロ・コトル 「黒い山」


ボスニアヘルツェゴビナ・モスタル 「銃痕」


ボスニアヘルツェゴビナ・モスタル 「露天商」


ボスニアヘルツェゴビナ・モスタル 「土産物」


ボスニアヘルツェゴビナ・サライェヴォ 「戦没者」


ボスニアヘルツェゴビナ・サライェヴォ 「キラー通り」



04:02:32 | ahiruchannel | No comments |

23 October

after hours 3

パンツいっちょになって姿見の前に立ってみた。

不自然な格好に首をひねって、己が肉体を仔細に点検する。後ろの方では姐さんが口をぽかんと開けている。
だが、決してギリシア神話に出てくる誰かのような自己愛をもってそういった行為に及んでいる訳ではないのだ。
両脚、両腕、シャツの襟ぐりがあたる鎖骨のあたり、パンツのゴムひもがあたる腰まわり。
それら全ての部位に無数の赤い斑点が浮かび上がっている。
とてつもなく痒い。我慢できずに掻きむしってしまう。
何か深刻な病気に罹患したのだろうかという暗い予感が一瞬頭をよぎる。
そう、ウィルス性の致死的な病を思わせる不吉な赤斑は日に日に増えているのだった。


ブダペストでの安穏とした日々に別れを告げ、アドリア海を目指したのがちょうど一週間前だ。
出発は早朝4時45分だった。
週に二便しかない格安バスはネプリゲットバスターミナル近くの路肩から発車する。
鉄道でクロアチアやスロヴェニアを目指すとなると、すぐに100ユーロ200ユーロという話になってしまうのだが、このバス会社は片道たったの15ユーロ弱という信じられない安さであった。
安さの秘密は、ターミナル敷地外の一般道路を勝手に使って離発着している事にあるのだろうか。チケット購入もエージェントを通さずネットでのクレジット決済のみ。
極めてシンプル、余計な経費がかからない分、乗車料も安いのだろう。
こういうシステムのバス会社がもっと増えればいいのに、と思う。
ヨーロッパにおいてバックパッカーの頭を最も痛めるのが、法外とも思える交通費の高さなのだ。

空はまだ白みきらず、夜気が冷たく身体をつつむ。
長期滞在者の主様と、宿のオーナーのヨシさんと、長期旅行者だとは到底思えない程身ぎれいなユウコ女史がそれぞれ見送ってくれた。
沈没生活のお陰ですっかり夜型人間になってしまった僕は、朝起きる自信がないので肚をくくって徹夜を決め込んでいたのだ。
主様も、僕と同じく普段から夜更かし組だったが、この日、彼は真夜中を過ぎてもなぜかベッドへ行こうとしなかった。
出発の時になって、僕らを見送る為にわざわざ起きていてくれたのだと気づく。
ユウコちゃんは名古屋でネイルサロンを経営する美意識の高い女性だ。
夜明け前に眠たい眼をこすりながら起きてきた割には、ばっちりメイクがなされていた。さすがに美のプロである。

ほとんど僥倖とも言える偶然の末に相見え、ひととき言葉を交わし、そして、皆がまた別々の方向へと旅立ってゆく。
またどこかで会いましょうと言い交わし、宿を後にした。
またどこかで…。


今回のアドリア海南下の旅には道連れがいる。
美大を卒業し、バーの店長や板前などの職を経て、ヨーロッパの街並を絵にしながら旅をしているという異色のパッカー、ナオキくん。
馬鹿重い画材を背負ってブダペストへやって来た酒好きの彼と、同じく阿呆みてえに重いギターをぶらさげた飲み助の僕とはすぐに意気投合した。

彼はクロアチアへ、僕はスロヴェニアへと行く予定でこの日の切符を買ってあったのだ。
方角は同じ。彼が先に下車するはずだった。
ところが、どうした訳かこの日アドリア海方面へ向かう便はクロアチアの首都ザグレブを経由しないのだという。
今週はクロアチア通過の為のパーミッションを取っていません。よってザグレブでの途中下車はできません。
アテンダントはそう説明する。

なんじゃいそりゃ?
先週までできていたことがなぜ今週になってできなくなるのか?
しかし、そんな些細なことにいちいち文句を言っていてはとてもじゃないがパッカーなんかやってられない。
旅とは、いわばおびただしいトラブルの集積でもあるのだ。
ここでナオキくんの予定に若干の狂いが生じ、僕と共にスロヴェニアへ向かうことを余儀なくされる。旅は道連れだ。

首都リブリャーナは小さな小さな街だった。
小高い丘の上の王宮が街を見下ろし、川が流れ、教会がそこかしこに点在するという典型的なヨーロッパの都市風景。
だが、その規模があまりにこぢんまりとしているので、プラハやブダペストのミニチュアのように感じてしまう。
こんな事を言うと観光局あたりに怒られそうだけど、特に感興をそそるものはない。
あてもなくうろうろと歩き回り、駅前の野外パブでビールを飲んだだけ。チェコ以来の冷えた生ビールだけはなかなかいけた。

翌日は郊外のシュコツィアン鍾乳洞なるものを見に遠足を実施。
この洞窟はヨーロッパ随一の規模なのだとか。
僕は鍾乳洞なんぞには特に興味もなかったのだが、行ってみるとそれはそれでなかなか良いものだった。地下の目も眩むばかりの大渓谷もさすがの迫力だった。
面白かったのは、鍾乳窟内ツアーにおけるガイド言語がイタリア語と英語の選択制になっていることだった。
そう、スロヴェニアは旧ユーゴとはいえ、アドリア海をはさんでイタリアと向き合う国なのだ。
実際、リブリュアーナの街にはイタリアンレストランが軒を連ねていた。
パスタの味はまあまあ、可もなく不可もなくといったところ。
値段はしっかりユーロプライスだった。

スロヴェニア滞在はわずかに二日。翌々日の朝の列車でクロアチアへ移動。
首都ザグレブは旧共産圏特有の暗灰色に塗り込められていた。

宿に荷を降ろすのももどかしく、すぐに近所の市場へと向かう。
生ハム200グラムに巨大なチーズの塊、それにビールを半ダース、祝杯と称して真っ昼間からささやかな宴を催した。
何がめでたいのかはよくわからないが、つまみどれもはっとするほど美味しかった。
さすがにここはヨーロッパなのだ。
量り売りのハムやチーズにさえ連綿と受け継がれる伝統を感じる。味が、本物だ。
僕はそれを「ヨーロッパの底力」と呼んでいる。
この日より以降、市場でハムとチーズを買い求めることが我らの日課となる。

ブダペストでの堕落の日々が嘘のように、僕は高速で移動していた。
全ては活動的なナオキくんのお陰である。
純粋な好奇心を失わずに、前へ前へと進んで行く彼に引っ張ってもらう形で、僕の旅も加速してゆく。

翌朝にはもうザグレブを出発、プリトヴィッツェ国立公園を経由して、その日の内にアドリア海沿岸の街スプリットへと抜ける。
この日、プリトヴィッツェでは市民マラソンが開催されており、周辺の道路は封鎖。
バスは途中で立ち往生、辿り着くのに結構な時間を要した。
マラソン大会の事は、僕よりも少し先に同じルートを行く姐さんから聞いていた。
(ブダペストで一緒になった、30代女性パッカー。詳しくは前回の項を参照)

とにかくそんな事情なので、本当に走るのかと僕はバス会社のカウンターで訊いてみたのだが、マラソン大会?何それ?というような、なんとも心もとない反応だった。
案の定、途中で足止めを喰らい、封鎖が解けるまで何時間も街道で待つことになる。この辺がいかにも旧社会主義的ないい加減さだ。
マラソンとの兼ね合いを考えてタイムテーブルを臨時に調整するとか、いろいろやりようはあるだろうに。
何の為にあんなに早起きしたと思ってるんだ。

悪いことは重なるもので、車内アナウンスがなかったせいなのか、我々は目的地で降り損ねてしまったのだ。
異変に気づいて僕がバスを止めたのは既に目的地を何キロも過ぎた地点だった。歩いて戻れと言い捨てて走り去るクソッタレバス。
親切なクロアチア人がヒッチハイクに応じてくれたから良かったようなものの、炎天下にクソ重いギターと画材を抱えて歩く我々は遠からず干上がってしまっていただろう。
その腹いせにという訳でもないが、プリトヴィッツェ湖沼公園には入場料を支払わずに不法侵入した。
公園の内も外もマラソン関係者でごった返していて、旅行者との見分けなどつくはずもなかった。
良きことがあり、悪しきことがある。

ここで九日ぶりに姐さんに再会、我々のパーティーは三人になった。
完全に陽が沈みきってから、スプリットへ到着。姐さんは前もって予約をしてあった日本人宿へ、我々は宿代をケチって民泊することに。
この判断ミスが後の恐ろしい赤斑の元凶となるのだが、その時はもちろん知る由もない。

スプリットはなかなかに風情のある街だった。
アドリア海の蒼に赤い瓦屋根が映える。どこを切っても絵はがきのような情景だ。
港に繋留された巨大客船の白い船体が陽光を眩しく照り返し、ビーチでは逆光を受けた海水浴客の黒いシルエットが波間に踊った。
港町はいい。よくよく考えてみれば、僕が好きなのは全てが港町だ。
イスタンブール、バルセロナ、香港、エッサウィラ、フリマントル、そして神戸。

スプリットには都合三泊し、近郊のシベニクという町へも足を伸ばした。
この頃から、手の甲に例の赤い斑点が出始めたのだ。それも一つや二つではない。
タチの悪い蚊に喰われてしまったのだろうか。痒くって仕方がない。
それで、観光に訪れたはずのシベニクの町で最初にした事といえば薬局探しであった。
化粧品屋を兼ねた店なので、店内には女性客しかいない。クロアチア語はさっぱりわからないから、あれでもないこれでもないと、品定めに時間がかかる。
おまけに、虫除け薬品の棚は生理用品コーナーのすぐ隣にあったりして、意味もなく汗をかいてしまう。別に怪しい者ではないのですぅ。
苦心の末、ペンシル型の容器に入った塗り薬と思しきものを選んだ。
例によって例のごとく、店員のお姉さんには英語が通じない。患部を見せて、この薬で大丈夫か?と身振りで訊ねる。


この薬はたいして効かなかった。
いや、効いたのかもしれないが、新しい斑点が次から次へと生まれて来るので、結局かゆみは断続的に続くことになる。
斑点は今や両腕だけでなく、脚にも現れ始めていた。


スプリットを後にし、フェリーでアドリア海を南下する。
目指すは世界遺産の街、ドブロブニク。別にバスで行ったって良かったのだが、我々全員が倍も時間のかかる船旅を選んだ。
何しろここは名にしおう紺碧のアドリア海、船に乗らないという手はない。
船酔いする前に酒に酔ってしまおうと目論んで、ワインと生ハム、チーズを持ち込んだ。
重油臭い二等客室とはいえ、船上で飲む酒は格別だ。塩気の強いハムもワインにはよく合う。
その昔、イタリアの踵からギリシアのペロポネソス半島へ船で渡った時も、甲板で一人酒盛りをやったものである。

そんな具合に、酒を飲んだり、映画を観たり、適当にその辺に横になって昼寝などしている内にドブロブニクに到着。
客引きに言われるままに、港からほど近い民宿へチェックイン。三人で部屋をシェアする事になった。
そして、僕は荷物を置くなり、やおら着ているものを脱ぎ散らし、鏡の前に立ったのだった。
ここで、ようやく冒頭の場面へと至る。


自分の身体ながら、あちこちに赤い斑点をこしらえた様はかなり異様だった。
そして、間歇的に襲い来る頭がおかしくりそうな堪え難い痒み。
これが現れたのはつい昨日のことなのに、今やそれは黙示録的に増えつつあった。異常なスピードだ。
がん細胞があっという間に全身に転移し、骨や脳髄までをも侵す様を僕は思い浮かべる。

スプリットの民宿のベッドに虫が潜んでいたのだ。それ以外に原因は考えられない。
そしてその虫は僕のTシャツやジーンズに乗り移った。おそらくは。

この種の吸血性の寄生昆虫で、人間の生活圏内にいるものでは、ノミ、シラミ、ダニなどが考えられる。

その昔、猫を飼い始めた時分には、ノミに随分悩まされた。
こいつらは人の服に潜むのである。
なんだか脚がばかに痒いなと思って、ズボンの裾をまくり上げてみると、ピョーンと飛んで出たこともある。
その幼虫が床を這いずる様も、見ていて決して心和む種類の光景ではない。
僕はまだ小さかった猫を、何度も何度も風呂へぶち込み、ノミ取りシャンプーで泡立てた。
そのたびに、こいつは情けない声をあげてよろよろと逃げ惑ったが、委細構わず湯をぶっかけ、タオルでごしごしと拭いて、それからヘアドライヤーで乾かした。
ノミ取り用のブラシで梳り、石鹸水を張った洗面器に捕えた虫をつけて抹殺した。
月に一度は害虫駆除の煙を炊き、部屋を念入りに掃除した。それでもノミは決して絶滅しなかった。たまらんよ、これは。
結局、動物病院で完全にノミを駆除できる薬が処方されているのを知ったのは、そんな不毛な戦いを一年近くも続けた後だったのだ。
だが、スプリットの民宿には猫も犬もあひるもいなかった。
この刺し痕はノミではない。

トコジラミ、別名南京虫は日本ではもう目にすることもないが、海外の不衛生な宿屋には今でもしばしば出現する。
南京とは外来のという意味の昔風の接頭語だ。南京豆、南京錠、南京玉すだれなど。維新頃、海外からの積み荷にくっついていた虫が、日本に広まったとされる。
当時は神戸港近くに大量に生息していたのだとか。たまらんなあ。
だが、こいつは成虫になると体長8mmにもなるので、当然目視が可能である。
僕はシャツをひっくり返して、襟や袖口の縫い目の所を仔細に点検したが、それらしい虫はいない。

だとすると、ダニか。
ダニの種類は世界中で実に二万種を数えるらしい。たまらんなあ。
もし昆虫類が今の何倍かの大きさを持っていたら、世界は全く違った様相を呈していたであろう。
子犬ほどもある二万もの色とりどりのバライティ豊かなダニどもが、そこいら中をうろうろとする様を想像していただきたい。
噛み付かれて血を吸われたりしてね。思わず貧血になりそうである。

問題は、視認できない怪しい虫が僕の服に潜んでいるらしい事である。
痒い痒いとのたうち回る。見かねた姐さんが「ムヒ」を貸してくれる。
前述したが、このお方は大変しっかりと準備をして旅をしておられるのである。
虫に刺される可能性なんか全く考慮に入れていなかった誰かとは大違いだ。
だいたいにおいて、僕は日焼け止めや虫除けや下痢止めといった基本的なものを何一つ持っていない。風邪薬さえもない。
あるのは持病の偏頭痛の薬くらいのもので、後は譜面台とかスピーカーとか、そういう重くてかさばるような、愚にもつかないものばかりである。


痒みに耐えながらも、翌日からドブロブニクを観光して回った。
街が見下ろせる丘に何時間もかけて登り詰め、死にそうになった。
何しろ石がごろごろと転がる斜面をサンダル履きで歩んだのだ。しかし山頂からの景色は掛け値なしに素晴らしかった。
教会前の広場で日光浴をする猫たちと遊んだ。
魚介を喰わせる老舗レストランでは白ワインで生牡蠣をたっぷり堪能した。ワカサギフライもいけた。
もっとも、かなりの分量を足下の猫に食べられてしまったが。ここは東欧でも指折りの猫町なのだ。

船で近隣の島へも渡ってみた。
ここにはなぜか野性の孔雀がたくさんいて、メイオーメイオーとやかましく騒ぎ立てていた。
ヌーディストビーチにも足を伸ばす。
ビーチというか、波打ち寄せる岩礁なのだが、とにかく入り口には着衣での入場禁止と立て札が立っている。
ナオキ君は迷うことなくパンツを脱ぎ捨て、股間のあたりをぶらぶらさせながら勇ましく先陣を切った。
僕は冷やかし半分でついて行っただけなのだが、彼の益荒男ぶりにいたく感じ入り、やはりパンツを放り投げてぶらぶらと後に続いたのだった。
残念ながら、若い女性の姿はどこにもなかったことを念の為申し添えておく。
しかし、これはなかなかに気持ちのいいものであった。素っ裸で潮風に吹かれるなんて経験はなかなかできるものじゃない。
取り残された姐さんがビーチの入り口でむくれていた。ま、日本人女子はなかなか入りにくいだろうな。

こうしてドブロブニクでの三日は瞬く間に過ぎた。
衣類に住み着いた虫たちは、その間も僕の血を吸い続け、赤く不吉な痕を次々と作った。
姐さんに借りたムヒは目に見えて減りつつあった。塗っても塗っても間に合わないのだ。
どうしても掻きむしってしまうので、肌はボロボロになる。

痒い痒いとうめきながらもクロアチアに別れを告げ、さらに南下。バスでモンテネグロへと向かう。
ドライバーもアテンダントも、とてもカタギとは思えないような目つきの悪い連中だった。
旅行客が荷物を固めて置いてあるあたりにバスの鼻先を乱暴に突っ込み、それらを蹴散らした。
客の誰かが注意すると、文句あんのか?とギャングさながらのいかついガンたれ。先ほどまでなごやかに談笑していた乗客たちの顔がさっと引きつった。
マフィアがユーゴ解体で落ちぶれて、バス会社に就職したのだろうか。我々はそのバス会社をヤクザバスと命名した。

二時間半かけて、四方を山に囲まれた入り江の町、コトルに到着。
モンテネグロはイタリア語で黒い山を意味するが、その名の通り、山肌は黒々としている。


だが風景に目を向けている余裕はない。
民宿に着くなり、僕は着ているものを脱いで、湯をわかしにかかった。
かの深夜特急には、インドのアシュラムで子供達の衣類についたシラミを退治する場面がある。ドラム缶に湯をわかし、そこへ服を叩き込むのだ。
僕はスプリットでもドブロブニクでもちゃんと衣類を洗ったが、赤斑は増える一方だ。洗濯したくらいでは虫は死なないのだ。
煮えたぎる湯の中にぶち込んで息の根を止めるしかない。

だが、電気コンロの栓をひねった途端に、あっけなく家中の電気が落ちた。
ううむ、この貧弱なインフラ。旧共産圏よのう。

電気の回復を待って、煮沸開始。
ここで、姐さんのお役立ちグッズが次々と登場した。まずは電熱コイル。
水を満たしたコーヒーカップにこいつを突っ込むと、すぐに沸騰するというあれだ。
弱々しい電気コンロだけではさっぱり湯がわかないので、電熱コイルを鍋のふちに洗濯バサミで固定する。
それから携帯用の箸。衣類を煮るにはまさに理想的なアイテムだ。
シャツやらパンツやらを一枚一枚、まるでしゃぶしゃぶのように、姐さんが煮え立つ鍋の中を泳がせる。
その間、彼女は死ね死ね、ムシ死ねと念を送り続けた。
そして、ホカホカと湯気を立てる衣類を僕が風呂場へ運び、タライに水とありったけの洗剤を入れて死ね死ねとかき回す。死ね死ね。
これで、日光にあてて乾かせば完璧なのだが外はあいにくの雨。仕方なく軒下に干して、ようやく一息ついた。
姐さんがTシャツとズボンを貸してくれる。本当に気の利く人なのである。

我々は最大限の敬意を込め、彼女にドラミちゃんというあだ名をおつけして差し上げたのであった。

依然天気は悪かったが、三人で街まで出た。
歩いている内にまた堪え難い痒みが襲ってくる。今朝新たに噛まれたと思しき場所が腫れ上がって、掻けば掻く程ますます痒くなる。
何度も何度も掻いていると、刺し痕がない部分まで痒いような気になり、果ては内臓や骨、脳までもが痒みを訴えだす。

段々と凶暴な気分になってくる。
無性に腹立たしい気分になってくる。
世の中の全てのものを呪いたいような気分になってくる。

今からスプリットに引き返して、あの民宿のあのベッドを焼き払ってくれようか。
いや、いっそのこと両手と両脚と首を切り落としたらすっきりするんじゃないだろうか。
古今東西、痒みに耐えかねて自死を選んだ人はいたのだろうか。今よりもっと不衛生だった時代には、全身を南京虫にやられて発狂した人がいたかもしれない。

駄目だ、ギブアップ。
僕のせいでさっきから二人に迷惑をかけっぱなしなのは申し訳なかったが、目についた薬局へ飛び込んだ。
例によって患部を見せ、とにかく痒くて死にそうです、切ないです、辛いです、と訴える。
薬剤師さんはいたってクールだった。ちらとも同情の眼差しを向けるような事はなかった。

なるほど、痒いというのは本当に個別的な体験なのだな。
痛みはある程度共有できるかもしれないが、痒みを分かち合うなんて話は聞いたことがない。
僕は重度の花粉症患者でもあるのだが、花粉症の症状を他人に説明する時にも、人はおおむね同じような反応を示す。
いやもう何しろ痒くてね、眼球を取り出して水洗いしたいです。僕のそんな訴えは、決して大げさではない。
それを聞いた人はすべからく、へえ〜そりゃ辛そうですねえ、と一応慰めの言葉らしきものをかけてくれる。
だが、目は完全に笑っている。
クソッタレが。お前の目ん玉取り出したろか、という気分にもなる。

処方されたのは、チューブに入った塗り薬だった。いかにも医療用という味も素っ気もない外装。
これ何の薬ですか?と訊くと、一言、アンチヒスタミニックという言葉が返ってきた。値段は2ユーロ。
ドラミちゃんは蚊取り線香を購入していた。
賢明な判断だ。この上蚊にまでボコボコにやられたら目も当てられない。

教会を見学してくるという二人を見送るやいなや、ズボンの裾をまくり上げ、薬をせっせと擦り込んだ。
本当はシャツもパンツも全部脱いでしまいたかったのだが、さすがにそれをやると逮捕されてしまう。新聞にも載ってしまう。
一匹の猫が遠くから、こいつは何をやってるのかしらん?という目でじっと見つめている。
君にも塗ったろか?

これは効いた。劇的に効いた。痒みが嘘のようにさっと引いた。
シベニクで買った痒み止めも、ドラミ姐さんが貸してくれた正統的日本のムヒも、まったく比較にならない程のこの効果。
後から冷静になってみれば、これは「劇薬」の類いだったと推測できる。だが、その時は痒さで気が変になりそうだったのでそこまで考えが回らなかった。
当然、後からその報いを受けることになる。


翌朝も篠つく雨。
これでは大量の洗濯物が乾かない。
今更ながらに、自分の間の悪さを呪いたくなる。
僕は自他ともに認める最凶の雨男なのだ。

さっきまで晴れていたのに、玄関を出た途端、洗濯物が仕上がった途端、雨がパラパラと降り出す。
あるいは、濡れて帰って来て、後ろ手に扉を閉めた途端に晴れ間がのぞく。

仕方なしに生乾きの洗濯物をパッキングし、三人でまた街へ出た。
この日は土曜日、中心地には朝市が立っていた。
肉、鮮魚、青果、ドライフルーツ、チーズ、ハム、油、などの生活必需品。
規模は小さかったが、市場というものは常に楽しい。
どのガイドブックでも取り上げる観光名所よりも、こうした地元民の為の市場こそがその国の世情を最も反映しておるのである、とかそんな聞いた風のスノッブな理由ではなしに、純粋に楽しい。
特にチーズの売り場に風情があった。おらが村でじいちゃんとばあちゃんが作りましたというような、素朴な手作りチーズが所狭しと並ぶ。
見るからに酸っぱそうなフレッシュチーズ。一冬熟成させたというような茶色味がかった丸チーズ。試しに一つ買って帰りたかったが、今日中に隣国へ移動するので我慢。

街の広場には年配の日本人団体旅行客。アドリア海沿岸周遊の旅は、目新しい観光スポットとして人気があるのだろうか。スロヴェニアでも、クロアチアでも団体客を数多く見かけた。

彼らは一様に「耳太郎」という小道具を携帯していた。
みんな「みみちゃん」っていう愛称で呼んでるのよ、と一人の中年女性が教えてくれた。
一見小型ラジオ風の筐体からイヤホンが各人の耳に伸びている。これで添乗員の声を無線キャッチするのだそうだ。
現地ガイドの説明を添乗員が通訳し、それをさらにみみちゃんが旅行客の耳へ直接送り届ける、という訳だ。
いかにも日本的な気配りというか、余計なサービスというか、なんというか。
ちなみにコミュニケーションは一方通行で、顧客の声を添乗員に返す事はできない。
トランシーバー機能を持たせるなど雑作もない事だろうが、それをやると口うるさいじじばば共が勝手な事を言いまくって、添乗員さんはすぐにストレスで鬱病になってしまうだろうな、と容易に想像できる。

この日、団体客を引率していたのは若く奇麗な女性だった。
ひとしきり城壁内の観光を終えて、これから解散しての小休止に入ろうとしているところのようだった。
我々はその様子を見るともなしに遠巻きに眺めていたのだが、突如ドラミ女史が、あのおねーさんナンパしてお茶しようよ、と言い出した。
若くて可愛いのに、老人の相手ばっかりできっと同世代と話したがってるよ、と。
僕とナオキ君は顔を見合わせたが、ドラミさんは委細構わず歩いて行ってしまった。突然何を言い出すんだあの人は?
見るからに社会不適合者のバックパッカーと、大手(かどうかは知らないが)旅行社のエリート添乗員が話なんかしたがるものだろうか。
だいたい、僕は見知らぬ人に声をかけるという行為がものすごく苦手だ。ナンパなんか未だかつて一度もした事がないし、道を訊くのだって結構な勇気が要る。
だが、ドラミさんは添乗員のおねーさんをいとも簡単に連れて来てしまった。手品でも見ているみたいだった。
僕はその社交性というか、人当たりの良さというか、コミュニケーション能力に内心舌を巻く。絶対に真似できない。

きちんと化粧をし、まともな衣装に身を包んだ、背筋の正しい美人だった。こういう「普通の」美しい日本女性を目にするのは実に久しぶりだった。
絶対にお客さんに見つからない、お店の一番奥でなら、おつきあいさせて頂きます、と彼女は言った。
僕とナオキ君は顔がにやけそうになるのをこらえつつ、薄暗いカフェの奥へ移動した。それぞれにカプチーノやらビールやらを注文する。
添乗員さんは、ようやく肩の力を抜いて、タバコを一本口にくわえた。
お客さんの前では絶対に吸えないんです、と打ち明けるように彼女は言う。
年配の方が多いから、若い女性の喫煙を快く思わないし、中には怒り出す方もおられて…。
なるほどなあ。若くて美しく有能な添乗員である為には、いろいろと気苦労も多いのだ。

歳くったお客を引率するのは、やはり想像を絶する激務であるらしい。
何から何まで気を配って、面倒を見て、食事の際もつきっきりで、自分はお客の休憩時間にスケージュールを確認しながら飯をかき込む。
誰よりも早く起床し、誰よりも遅く就寝する。集合場所には定刻の15分前には行く。それでも、生真面目な日本人達はもう集合している。
ほとんどの場合引率は一人だから、歳の離れたお客とはろくに話も合わないだろう。
随分孤独な仕事だろうな、と思う。海外へ行けるという余録はあるにしても、こうも四六時中気を張っていては身が持たないだろう。

我々は、ほんの一時でも彼女を楽しませねばという使命感に駆られたのか、添乗員には想像もできないような旅の馬鹿話を次々と披露して、場を盛り上げた。
この人なんかね、クロアチアで虫もらっちゃって、せっかくモンテネグロに来たっていうのに、最初にやった事が衣類の煮沸ですよお、とドラミさんが言う。
そうそう、ほんと何やってんでしょうねえ、と僕も調子を合わせる。添乗員さんは可笑しそうに笑う。

ひとしきり笑った後、ありがとうございます、本当に楽しかったです、と言って彼女は仕事に戻った。
自分の分の勘定を素早くテーブルに置こうとした彼女を僕ら全員で押しとどめた。
大変な仕事だろうが、どうか頑張って頂きたいと思う。


その日の午後のヤクザバスで一度ドブロブニクまで引き返し、乗り換えをしてボスニアヘルツェゴビナへと向かった。長時間の移動だ。
途中の休憩所の汚いトイレは1ユーロだった。ぼったくりもここに極まれりというところだ。
切符を切りに来た車掌には、モスタルで降りるからと告げておいた。
にも関わらず、またしても我々は降り損なってしまった。ボスニアのバスも負けず劣らずヤクザだったのだ。
到着予定時刻を過ぎても、一向にそれらしい場所が見えてこず、いつまでも薄暗い街道を走り続けるバス。
僕がどうにもおかしいと思ってバスを停めた時には、すでにモスタルから致命的に離れてしまっていた。
もう夜更けと言ってもいい時間帯だ。降ろされた駅の周辺には街灯ひとつない。

同乗していた地元の女子大生達が、我々の代わりにクレームをつけてくれた。
どうも途中で車掌が交代したらしく、前任者は不案内な異国人が乗車している事を引き継がなかったのだ。
もう、この辺が本当に旧共産圏の悪しき伝統だよなあ。サービスという概念が社会にまったく浸透していない。
バスなんか、とにかく走りゃそれで文句ねえだろう?後はおめえらで勝手に乗り降りしろや、という経営姿勢がありありなのだ。
明日新聞に投書してあげるから、と息巻く女子大生達に僕らは礼を言う。

とは言っても、目的地に気づかなかった我々にも若干の責任はあるだろう。仕方ないので、モスタルまでは白タクを使った。
我々三人と、同じく降り損ねたアイリッシュの女の子の二人で、しめて70ユーロ。一人頭14ユーロの計算である。
一日分の宿代が奇麗に飛んだ。痛い。

走れども走れども、一向にモスタルに着かない。
二時間が過ぎ、三時間が過ぎ、一体我々はどれくらい行き過ぎたのだろう、と訝しみ始めた頃、ようやく街灯りが見えて来た。
大きな街だった。僕はドブロブニクから一睡もせずに、景色を見ていたので断言できるが、バスはこんな場所を通っていない。駅前のターミナルにも全く見覚えがない。これを見過ごすバカはいない。
あのヤクザバスはモスタル経由とうたっておきながら、当の街をかすりもせず、全然別の道を走っていたのだ。
はっきり言って滅茶苦茶である。我々に瑕疵は全くなかったのだ。クソッタレヤクザバスめが。
これが、旧ユーゴという場所だ。これから個人で旅行に行かれる方は心して頂きたいと思う。

そんなこんなで、日付けもとうに変わってから民宿にチェックインできた。

僕の身体にはコトルでの煮沸以来、新しい斑点はできていない。
代わりに、薬を塗った個所が大きく腫れ上がってきていた。痒いと思ってうっかり触ってしまうとかなりの痛みが走った。
前日の薬に問題があるのは明白だった。あるいは、ステロイドなどの危険な成分が入っていたのかもしれない。
散々である。
しかも、僕と同じ宿の同じ部屋に泊まったのに、ナオキ君のベッドには虫がいなかったのか、彼はまるで平気そうな顔をしているのだ。
神はかくも我らを不平等に創り給いけり。


翌日は首都であるサライェヴォに移動した。
日本人男性を専門に狙って喰ってしまうという恐ろしい民宿の女将に追いかけられたり。
有名なオーストリア皇太子暗殺事件の現場を見学したり。観光客が大勢いたのでそうと分かっただけで、何の変哲もない普通の橋だった。
先の戦争中、ここを歩く者は老いも若きも男も女も関係なくセルビア兵に狙撃されたというスナイパー通りを歩いたり。
教会とトルコ系のモスクが一つの街中に混在しているのがシュールな絵だったり。

宗教や民族が原因の対立は今もって根が深いと聞く。
山肌に妙に墓場の数が多いのも気になった。財政難で再建の目処が立たないまま放置され、観光遺跡と化した公共施設の数々。
安易な表現だが、戦争の爪痕という言葉がしっくりくる情景だった。


そして、首都にもやはり一泊しただけで、翌日、僕らはほとんど一日がかりでブダペストへと帰ったのだった。
列車の中ではまた酒盛りをやった。ハムにチーズ。そして馬鹿話。
アドリア海南下の旅もこれにて終了だ。


正確には、アンダンテホステルへ帰って来たのだ。
我々はみな、この宿で出会い、別れていった。

二人はいい旅の連れだった。
僕はいついかなる場合も一人で旅をする、孤独を好むタイプのパッカーだが、たまにはこうやって道連れができるのも悪くない。

いや、もっと積極的に言おう。楽しかったのだ。
いろいろと苦労もしたが、楽しかった。

この後、僕はすぐに友の待つバルセロナへと飛び、モロッコを周り、たった一週間の一時帰国を経て、オーストラリアへと渡る。
姐さんは、アンダンテホステルの臨時スタッフとなり本格的に沈没。今もまだ旅を続けている。
ナオキ君からは、先日、ようやく日本に帰ったとメールが届いた。まじ一緒に飲みたいっす!と。

繰り返しになるが、ほとんど僥倖に近いのだ。
旅というその一点でのみ、我々はつながり、切れ、時にまたつながる。
また会えるかもしれない。会えないかもしれない。
あるいは、もうこういう旅は二度とできないかもしれない。

ただ、僕たちが共有したある種の時間の断片、ある種の記憶の断片は、この先、我々の寒々しい人生をちょっぴりだけ暖めてくれるのではないだろうか。

そんな気がする。


身体の腫れは数日でひき、その後虫に喰われる事はもうなかった。
でも、一時帰国した折り、僕が真っ先に買い求めたのは、虫さされの薬だった。





































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08 October

景 6 路面電車


チェコ・プラハ 


ハンガリー・ブダペスト


クロアチア・ザグレブ


クロアチア・ザグレブ


ボスニアヘルツェゴビナ・サラィエヴォ


ボスニアヘルツェゴビナ・サラィエヴォ


スペイン・バルセロナ
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