Archive for May 2008

05 May

シルクロード小景




イラン・イスラーム文明が黄金期を迎えたサーマーン朝時代、この街は王国の都であった。

ブハラ。

サマルカンドと並び賞されるウズベキスタン観光のハイライトだ。
旧市街の中心部では基本的な建物の配置は2000年前と変わりないとさえ言われている。
著名な自然科学者、イブン=シーナらが活躍したのもこの街だ。

旧市街のカラーンモスクやミナールの蒼いタイル装飾がひときわ目を惹く。
カラーンとはタジク語で大モスクという意味であり、8世紀、アラブ人によってこの地に最初のモスクが建てられて以来、ここは常に金曜モスクが置かれてきた場所なのだ。
広場をはさんで向かい側にはふたつの蒼いドームをいただく神学校、マドラサがある。
両者の間に立つのがブハラのシンボル、カラーンミナールである。

ミナール、またはミナレット。
これは大抵のモスクの脇に立つ塔のことで、お祈りの時間になると呼びかけ人が塔上より礼拝の合図、アザーンを朗誦する。
キリスト教の教会に鐘楼が付属するように、モスクにはミナレットが欠かせない。
本来、祈りの時刻を人に伝えるのが目的なので、それほどの高さは必要なかったのだが、次第に権力の象徴となってゆき、高さや本数を競うようになっていったという。

現在、最も多くのミナレットを有するのはメッカのカーバ神殿で、その数は6本。
ほとんどののモスクには1本、多くても2本のミナレットしかついていないことを考えると、さすがにイスラームの聖地、総本山だと納得できる。
ところで、世界にはただ一つ、メッカと同じ6本のミナレットを持つことを許されたモスクがあるのをご存知だろうか?
それはイスタンブールのスルタンアフメットジャミィである。
内部の青い装飾タイルの美しさから、ブルーモスクの別称で親しまれているこの巨大建造物。
建立を命じた往時のスルタンの絶大な権力がうかがい知れる。


ついでだから、イスラーム四方山話を続けよう。

日本では、マスメディアの偏向放送と人々の知識の欠如のせいで、イスラームというと何やら狂信的でアブナイ人々という印象がある。
嘆かわしいことだ。

そもそも「アッラーの神」という言い方は完全な誤用である。
例えばインドの宗教的世界にはシヴァやビシュヌといった神々が存在するが、この呼び方だと、同じ文脈でワンオブゼムとしてのアッラーがあるように錯覚してしまう。
それが、イスラーム教徒たちは、アッラーの神という得体の知れないものを信仰しているという誤ったイメージへもつながっているように思う。

アッラーは文法的には「アル・ラー」とするのが正しい。
アラブ語でラーは神、アルは定冠詞だ。
これを英語に直訳すると、THE GODとなる。

つまり、ユダヤ教やキリスト教における唯一神とまったく同じ存在をイスラームでも信仰しているのだ。
さらに言うと、預言者ムハンマドは大天使ジブリール(ガブリエル)を通して神の啓示を受け、イスラームを創始したとされている。
ガブリエルとはいかにも意外な感じだが、三者とも出所が同じ兄弟宗教だという証だ。
ゆえに、イスラームではイエス=キリストをムハンマドと同じく預言者として規定している。
ムハンマドはキリストよりも後世に出た存在であるから、神の言葉を最終的に最も正しく預言できた、それがイスラームの成り立ちなのだ。


イスラーム建築は美しい。
中でも、ペルシア系の蒼い装飾タイルを用いた柔らかいフィギュアのドームは掛け値なしに素晴らしいものだ。
トルコ系の勇壮で力強いモスクも捨てがたいが、僕はペルシア系の女性的な建築がより好みだ。

ブハラの金曜モスクもこの蒼いドームをいただいている。
ここは有数の観光地でもあるが、現役のモスクとして現在も機能している。
僕が訪れた時はたまたま観光客が一人もおらず、お祈りにやって来た数人の地元民の姿があるだけだった。

正門から入ると、すぐに中庭に出る。
長方形の広場を取り囲むようにして四方に回廊が走り、正面にはドーム屋根の本殿がひかえている。
この本殿はメッカの方角を向いており、内部にはそれを示す壁のくぼみがある。
このくぼみはミフラーブと呼ばれ、その象徴的なアーチ型のフィギュアは建物の随所にデザインとして用いられている。

仏教徒は仏像に向かって手を合わせ、キリスト教徒は十字架に向かって頭をたれる。
そしてイスラーム教徒は、このミフラーブに向かってひざまずき、敬虔なる祈りを捧げるのだ。

祈りの場は神聖な場所だ。
異教徒たる僕は中に入るのを遠慮する。





薄暗い回廊を一人で歩く。
聞こえるのは鳥のさえずりと自らの靴音だけだ。
ミフラーブを模ったアーチが等間隔でどこまでも連なり、回廊の奥の闇へとまっすぐに続いている。

僕はいつしか異次元の回廊へと迷い込んだのだろうか?
前も後ろも、右も左も、すべて白い壁とミフラーブのシルエットを支える柱の連なりだけだ。
日の光はもう届かない。

完璧だ。
僕はこの完璧な空間を我が物としている。
延々と続くミフラーブの影のように、時は古より、この完璧な空間の浜辺へと、今、流れ着いた。

自らの内側に存在する静寂と、外側に存在する静寂。
両者が寸分の狂いもなく完全に一致し、やがて融解を始めるその時。

その、まさに、時の一点に、僕は遠くアザーンを聞いたのだ。

ラウドスピーカーによって拡声されたものではない。
肉声による昔ながらの正統的なアザーンだ。

誰かが、この回廊のどこかで、唄うように祈りの時を教えているのだ。
やがて、時はその流れを静かに止める。僕にはそれがわかる。

そっと目を開けると、僕は異なる場所にいた。
ここはどこだ?
僕はどこにいるのだ?

回廊に鎮座する首のない仏像たち。
昇ったばかりの陽光が壁面に長い影を彫刻してゆく。
それはアユタヤだった。
朝早くに訪れたその遺跡で、動くものは僕だけだった。

なぜ、僕はこんなところに?
時が止まってしまったから?

そう。
それはブハラのモスクでありながら、アユタヤの遺跡なのだ。
イスファハンの王のマスジッドであり、アントワープの教会であり、チベットの天の湖であり、僕が経巡ってきた様々な場所だった。

停止した時の中では、あらゆる完璧な瞬間が同時的に存在する。
全てはつながっている。
僕は、その完璧な一瞬の訪れを求めて、こうして旅を続けているのだろうか。





気がつくと、アザーンはやんでいた。
時はいつの間にかその機能を取り戻し、全てがそこから去ってしまった後だった。
円環が閉じる音が聞こえ、僕はその外側に立っていることを発見する。

あれは白昼夢だったのか?


お祈りを終えた人々が談笑しながら出てゆくところだった。
僕もまた、彼らに続いてモスクを後にする。

ミナールを見上げると、中空に高い陽光に目を射抜かれた。

ここはブハラ。
ここはシルクロード。













19:24:12 | ahiruchannel | 3 comments |