Archive for 05 May 2009

05 May

旅に棲む日々 1

イスタンブールの歴史的景観区の路地裏に、日本人ばかりが泊まる宿がある。

男女別になったドミトリはじめじめと暗く、便所は水が流れず、同時に二人がシャワーを浴びるとボイラーが死ぬ。
ベランダという物がないからしようがなくて地下の物置に洗濯物を干すのだが、そんな所に干しても乾く訳がなく、しまいにカビが生えたりする。

だが、最上階の共同スペースには日本語書籍と漫画本のなかなか立派なライブラリがあり、情報ノートの類も充実している。
宿代はスルタンアフメット地区では間違いなく最安値だろうし、ブルーモスクまで徒歩3分という好立地もありがたい。
宿泊者はほぼ全員が日本人パッカーなので、過酷な長旅で日本語の会話に餓えた者同士はすぐに意気投合する。
トルコ産のまずいビールを飲みながら旅とは何ぞや、人生とは何ぞやと暑苦しく語っちゃったりね。

オーナーは普段は宿には顔を出さず、長期旅行者が交代で管理人を務める。
僕が泊まった頃は女性が管理人だった。
皆彼女の事を「かんりにんさん」と呼んだので、名前は知らない。

この宿では物価の高いイスタンブールで少しでも滞在費を安くあげる為に「シェアめし」なる制度が導入されている。
材料費を参加者全員で分担し、自炊をする訳だ。費用はおおむね2〜3リラ。
街中の屋台でファストフードのドネルケバブを買っても5リラは取られる事を考えると、コストパフォーマンスは圧倒的に高い。
メニューは日替わりで、だいたいは管理人さんが献立を決め、調理も担当する。
共用冷蔵庫には本日の献立を書いた紙が貼り出され、参加したい宿泊者がそこへ名前を書き込み、代金を払う。
参加人数が多ければ当然飯は豪華になるし、逆に少なければつましいものとなる。


さて、初めてこの宿を訪れた日の献立は「カルボナーラ」であった。

僕はカルボナーラについては、というか、パスタ全般に関して一家言ある人間である。
レストランなんかで料金以下の半端な皿を出されると、俺が作った方がうまいよと呟くようなタイプの人間である。
冷蔵庫にはオリーブとアンチョビとケッパーとパルミジャーノを常時ストックし、麺は多少高くてもバリーラを選び、茹で時間を計るキッチンタイマーは秒単位でセットしてあるという人間である。
出されたパスタになーんも考えんとタバスコをぶっかけたり、テレビを見ながら麺を茹でてアルデンテのタイミングを見誤るような輩は地獄に落ちればいいと考える、そういう人間である。

その宿に荷を降ろした時には丸4ヶ月間パスタを口にしていないというコールドターキー状態の最中であり、ここで他人が作ったまずいパスタなんか喰わされて発狂したくないという強い思いが沸き上がり、差し出がましくもカルボナーラはわたくしめがお作りいたしましょうと管理人さんに申し出たのは極めて自然な流れであった事はご理解いただけると思う。


管理人さんは大喜び。
よかったあ、実はカルボナーラってどうやって作るかよく知らないんですよお〜。(なぜ献立表に書いたのだ?)
じゃあ買い物は私がしてきますので。何でも言って下さいね。

僕は絶句しかけたが、気を取り直して笑顔を作る。管理人さんは基本的に善の人なのだ。
任せてください。カルボナーラは得意中の得意ですから。


ご存知ない方の為に簡単に説明するが、カルボナーラとはベーコンと粉末状のハードチーズで作るソースを太めの麺に絡めていただくシンプルな一品である。
美味さの決め手はベーコンの脂と濃厚な味わいのパルミジャーノレッジャーノ。
これに卵黄を加え、クリームは使わないのが正当派ローマ風だ。仕上げに黒胡椒をぱらり。

パルメザンチーズと称して円筒形の容器に入っている粉チーズがあるが、どのレシピ本にもあれだけは絶対に使うなと書いてある。
必ずパルミジャーノレッジャーノか、ペコリーノロマーノを使いましょう〜云々。ベーコンもできればイタリア産のパンチェッタが好ましい。
僕は別に権威主義者ではないが、カルボナーラに関してはこれは全くの事実だ。
上等のベーコンとパルミジャーノがないと、この料理は成立しない。


何を買いますかあ?とメモの準備をする管理人さんに、僕はご託宣をたれる預言者のようにおごそかに告げる。

「まず、ベーコンのブロックを…」

「あ、それはありません。トルコにベーコンはないです」



乾いた一陣の風が僕と管理人さんの間を吹き抜けた。



イスラムの国ですからねえ〜、と彼女はあくまでにこやかに言う。

「代わりに鶏肉でもいいですかあ?」この人は善の人なのだ。僕はしばし言葉を失う。

カルボナーラはベーコンがないと成立しない。僕のプロットはいきなり破綻をきたした。


「えと、それではパルミジャーノレッジャーノというハードタイプのチーズ…」

「それもきっとないと思いますよお。代わりに白チーズでいいですかあ?」


「あの、えと、じゃあ、フェットチーネと申しまして、平麺なんですけど…」

「ロングパスタは高いんですよお。一人2リラだと予算オーバーだからマカロニでもいいですかあ?」


「………」



僕があほうのように口を開けて完全に沈黙してしまっても、管理人さんは微笑みを絶やさない。
繰り返すが、この人は善の人なのだ。
悪気は、まったく、ない。


結局、要求した食材で用意された物は卵とオリーブオイルだけだった。

僕は力なく鶏肉に大蒜の香りをつけてソテーし、それにすり下ろした白チーズと卵黄を混ぜ、茹でたマカロニにかけた。
自分の作ったものが一体何なのか全くわからなかったが、それは「カルボナーラ」として宿泊者に配られたのだった。
信じ難い事に、みな口々にうまいうまいと言ってそれを平らげたのだ。それは余計に僕を脱力させた。


翌日、献立表には「ペペロンチーノ」と書かれてあった。
僕は絶望的な気分でその文字を眺め、しばし天を仰いだ。

気配を感じて振り返ると、管理人さんが目を輝かせて僕を見つめているのであった。

02:37:04 | ahiruchannel | 4 comments |