Archive for 15 April 2008

15 April

週刊金曜日責任編集 行ってはいけない! 1

今回、旅の力点はシルクロードに置かれている。
中国、ウズベキスタンなどのオアシス都市と、その名所旧跡を訪れるのが最大の目的だ。

本来であれば中国からビザの要らないキルギスタンに入り、ウズベキスタンへと抜けるのが理想なのだが、ひとつ問題があった。
ウズベクへのアクセスはキルギス南部のオシュという都市が起点となるのだが、オシュと首都ビシュケクの間には東西に山脈が走っており、雪解けの季節に峠道でしばしば雪崩が起こるという。
折しも、季節は3月。
場所こそ違え、キルギス国内で外国人クライマーが雪崩で行方不明になったというニュースがあったばかり。
キルギスでバスごと雪に押し流されて谷底へ転落、というのはあまりいい死に方とも思えない。

僕は迂回路を取ることにした。
中国からカザフスタンを経由し、ウズベクへと抜けるいわゆる天山北路のルートだ。
しかし、この判断ミスが全ての災厄の元凶となる。
僕はキルギスの山間で雪に埋まってしまうべきだったのだ。


そもそもの最初からカザフの旅は死神に魅入られていた。
先制パンチとばかりに中国との国境コルガスでカネをすられてしまったのだ。

国境は北京時間の10時半に開く。ウルムチ時間で8時半。
これはカザフの首都、アスタナ標準時に等しい。
なのに、何を考えてやがるのか(きっと何も考えてないのだろう)夜行バスは北京時間の7時半に僕を国境で放り出した。
当然辺りは真っ暗。街灯ひとつない。
おまけに酷く冷える。僕は防寒具を着込み、空が白むのを待った。
人が三々五々、大荷物を抱えて集まってくる。
途中から冷たい雨も降り始めた。

そして、ようやく10時半。
開門を今や遅しと待ちわびていた人々が一気にイミグレーションオフィスに雪崩れ込んだからたまらない。
僕は人波に押し流され、ぶつかられ、よろめき、何度も転びそうになった。
一度列から出て空いている後ろ側に並び直したかったが、それもできない。
ギターのハードケースがさらわれないように必死でつかんでいるのが精一杯だった。

なんで皆そんなに我先に駆け出すんだあ?
たかが5分10分の違いじゃないか。

だが、この土地の民は列を作って整然と並ぶという概念を持たないのだ。
脱水機の中でめちゃくちゃにかき回されているようなものだった。
何がなんだか訳がわからない。
そうして、這う這うの体でイミグレオフィスへと抜けた時、財布の紐がぶらんとぶら下がっているのに気づいた。

もちろん中身は空だ。

両替しておいたカザフスタンテンゲも、ドル紙幣も、越境バスの為に残しておいた小額の元も、旅先で出会った人々のアドレスを書いた紙も、全て消え失せていた。

ちくしょう!やられちまった!!

僕は駆け戻り、辺りを見回したがそんなことをしても無駄だ。
門番の警官に、おい!泥棒がいるぞ!と訴えてもみたが、それも無駄。
あっそう、へえ、運が悪かったねえってなもんだ。
全然取り合ってくれない。

国境にはウイグル人やカザフ人の両替屋、運び屋がうようよいて、外国人旅行者である僕は彼らの格好のカモだったようだ。
しばし呆然とする。
何しろ長く旅を続けていて、何かを盗られたのは初めての経験だ。
被害総額は80$くらいだろうか。
それも相当に痛いが、何よりも精神的ショックが大きかった。
今からウルムチに帰って被害届けを出す訳にもいかない。
盗られたのはキャッシュなのだ。絶対に戻って来ないし、もちろん保険も適用外。
国境まで来て小金を盗られたからと言って引き返す馬鹿もいない。
完全に泣き寝入りだ。

最低の気分で国境を越えた。
オフィサーが中国は良かった?カザフからまた戻っておいでよ、と無邪気に言う。

クソッタレめ。

ああ、そうね、多分、と気のない返事を返すことしかできない。


緩衝地帯を越えるバスを雨の中ずっと待ったり、カザフ側のイミグレが理由もなく何十分も閉まったりと、とにかく酷い越境だった。
おまけにアルマトゥまでの交通費が馬鹿高い。
なんと30$もするのだと。
カザフ人の中年夫婦とタクシーをシェアしたので、多分適正価格だろう。物価が高い高いとは聞かされていたが、想像以上だ。

このおじさんは親切な人で、色々と世話を焼いてくれた。
昼食をおごってくれたし、宿に電話をかけて道順を訊いてくれた。タクシー料金もいくらか負担してくれたみたいだった。

良きことがあり、悪しきことがある。


アルマトゥに着いてからも受難は続く。
目的の宿がどうしても見つけられないのだ。
西安でつい一月前にその宿に泊まったというパッカーに会っていたので、存在はしているはずなのだ。

だが、あるべき場所にそれがない。
重い荷物を抱えて、その辺りを何度も行ったり来たりする。

実は目的の建物はずっと僕の視界に入っていたのだ。
だが、そもそも看板というものが出ていなかったし、何よりもそれは全然宿には見えなかった。
これは違うよなあ、と勝手に思い込んでしまっていたのだ。

何人もに道を訊いた。
無視して通り過ぎる人、知らないと一言だけ残して去って行く人、あっちだよと教えてくれる人、様々。
これはあくまで印象だが、ロシア系の人は総じて冷たく無関心、アジア系の人はまだ少しは義侠心を持ち合わせているようだ。
ともあれ、見つからないことには変わりがない。
1時間近くうろうろしたが、陽も傾いて来たので仕方なく第二候補の宿に移動する。
バスの路線も乗り方もさっぱりわからないから、歩くより仕方がない。
だいたいカザフスタンの通貨はスられてしまって、ない。

次の宿もなかなか見つけられなかった。
なぜって看板が出ていないからだ。
安宿はすべからく看板を出さないのがロシア式らしい。

ここでも散々人に道を訊いて、やっとそれらしき建物へ入った。
レセプションにいるロシア系の中年女性には英語がさっぱり通じない。
苦労した末に何とかドル紙幣しか持っていないことを伝え、後で両替してから払うことを了承してもらった。

しかし、部屋代はなんと4000カザフテンゲ。約33$だ。
もっと安い部屋はないのか?ドミトリーで構わないんだがと言ってみたのだが、通じたのか通じてないのか「ニェト」を繰り返すばかり。
僕はカザフにいる間中、どこへ行っても、何を訊いても、このにべもない「ニェト」をうんざりするまで聞かされることになるのだった。
あくまでもロシア式。

部屋は酷かった。
東南アジアや中国の安く快適な宿を巡り歩いて来た身にとっては、これのどこに33$も払う価値があるのか全く理解できない。
旧インツーリスト系の、老朽化著しいウサギ小屋。
おまけにシャワーは別料金だとぬかしやがるのだ。

最低だ。
最低の夜明けで始まり、最低の日暮れで迎える最低の一日。

だが、僕はあまりにも疲れ果てていた。
その日はそのまま倒れるように就寝。

もっと最低なことが悪夢のように次々と起こるなどと、この時には想像もできなかった。






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