Complete text -- "旅に棲む日々 3"

29 November

旅に棲む日々 3

パキスタンでのおはなし。その二。
インド国境に程近い街ラホールから、バスに延々と揺られ、車中2泊3日でイラン国境への拠点となるクエッタまで至る道のりについては前回のおはなしをご覧ください。


どうにかこうにかクエッタまで辿り着いた僕は、さらにその夜のバスでイラン国境へと向かう事にした。
結構な強行軍なのだが、勢いがついてしまうという事態は往々にしてあるものだ。
特に移動中の環境が酷い場合には割とやけくそ気味になって、こうなったらどんどん前へ進んでやるさという気分になるのだ。
パキスタンのバスは酷い。移動というよりは穏やかな拷問に近い。

ちなみに、僕が今まで乗った中で一番酷かったのはネパールのカトマンドゥからインド国境へと向かうバスだった。
どれくらい酷いかというと、巨乳だというから期待してはるばる来てみればただのデブじゃねえかこのやろというくらい酷い。
これについては、またいつか書きたい。

それとは別に、当時はイラク戦開戦前夜のきな臭い雰囲気が横溢しており、あまりパキスタンやイランに長居していると何に巻き込まれるか分かったもんじゃないというような事情もあった。
今にして思えば、ラワールビンディもペシャワールもフンザも、パキスタンらしいものを一切見ずに素通りしてしまったのはたいそう勿体ない事だったのだが。
とにかく。

旅行書などには、クエッタからイラン国境へはバスか列車で行くべしと書いてあるので、ほんの隣町くらいなんだろうと思っていたのだが、これがとんでもない。
クエッタ以西は広大な砂漠が広がっており、国境線はほとんど何もない不毛地帯の真ん中に引かれているのだ。
バスは一晩かけて砂漠を横断する。

そんな国境行きのバスでのこと。

夕暮れ時。
バスの乗車を巡ってちょっとしたトラブルがあったのだが、何とか目的のバスに乗り込む。
隣の席の青年は、民族服ばかりのパキスタンには珍しくポロシャツにジーンズという出で立ちで、髭も剃っており、どことなく知的な風貌だった。
英語もなかなか達者で、これからイラン、トルコ、東欧などを経由して北欧に働きに行くのだという。

ヨーロッパはいいよ。この国と違って自由だからね。
金も酒も女も、何でも思いのままだよ。問わず語りにそう話す青年。

そういうものだろうか。
この国では確かに酒は御法度、公共の場で男女が一緒になる事もあり得ない。バスの車両は男性用と女性用に別れているし、そもそも出歩く女性はほとんどいない。
良いとか悪いとかではなくそういう文化だという事なのだが、まあ気持ちはわかる。

バスは少し走っては停車して客を拾う、また走っては客を拾う、というのを繰り返しながら、夕闇迫る街をぐるぐると回った。
アジアのバスというのはだいたいがこの調子で、街から幹線へ出るのにえらく時間がかかる。
おまけに、乗って来る客はすべからく大荷物を抱えているので、それを積むのにもえらく時間がかかる。
そんな事にいちいち文句を言っていては、とてもじゃないがアジアの旅はやってられない。
走っていればいつかは着く。それくらいの気構えでちょうど良いのだ。

ところが、そんな仙人のような達観もすぐに月まで飛んで行ってしまう事になる。

何度目かの停車。
すっかり暮れた街角に少年といくぶん薄汚れた羊の群れがいる。
バスボーイがさっと降りて、車体脇のトランクを次々に開け放つ。
何をするのだろうと思っていると、突如、少年が羊の一匹を抱えて走り出した。
そうして、ばたばたと暴れる羊をトランクへと放り込んだのだ。バスボーイや他の大人達も手伝って、皆で羊を運び込む。
僕がぽかんと口を開けている横で、彼らは次から次へと、実に手際よく羊をトランクへと搬入して行った。

羊が、運び込まれて行く。
なんとも世紀末的にシュールな絵であった。
僕は思わず、隣の青年に訊く。

ねえ、ありゃ一体何やってんすか?

ああ、一つのトランクに6匹入るんだよ。全部で18匹だ。
青年が説明してくれる。

いやあの、そういう事訊いてんじゃないんすけど…。


いったいに、アジアの長距離バスは旅客と貨物の運搬を兼ねている事が多い。
運送手段を持たない商人達が、ローカルバスに大量の荷を載せて目的地まで運ぶのだ。
中国のバスには野菜が満載されていたし、ヴェトナムとラオスの国境越えバスには床一面に座席と同じ高さにまで段ボールが積んであった。
鳥籠に入れられた家禽類を見た事もある。
とはいえ、生きた羊をそのままトランクにぶち込むような超ラディカルなバスに乗り合わせたのはさすがに初めてだ。
中で糞尿が垂れ流しになったら僕の荷物にしみ込んで臭くなってしまうんじゃないだろうか。
いや、それ以前に、あんな乱暴な運び方をしたら羊は死んでしまうんじゃないだろうか。
エンジンの熱に当てられたり、窒息したりして。
だが、隣の男や他の乗客は皆一様に涼しい顔をしており、誰も驚いた風ではなかった。
この辺りの地域では、ローカルバスで羊を運ぶのは案外と普通の事なのだろうか。

バスは18匹の気の毒な羊達を載せて西進した。
夜もとっぷりと更け、月明かりとヘッドライトの灯り以外は何も見えなくなる。
僕はいつの間にか、暗い車窓に吸い込まれるように眠りに落ちた。


大きな声がして、目が覚める。
バスはいつの間にか停車している。外の方が何やら騒がしい。
車窓に目をやると、二人の男が何やら言い争っているのが見えた。
いや、言い争っているというよりは一人の男がもう一人の男に向かってなにやら言い募っているようだ。
身振り手振りを交えて盛んに何かを主張しているのは行商人風の男、それをうるさそうに聞き流しているのが軍服を着た兵士。
どうやらここに軍の検問所があるらしい。積み荷をめぐって揉めているようだ。

突然、軍人がトランクを開けた。
何の躊躇も、留保も、逡巡もなく、ものすごく唐突に。
バタンと派手な音がして、6匹の羊達が外へとなだれ出た。当然の事ながら。
べええええ、べええええええという鳴き声が夜空に響き渡る。
こんな狭い所に押し込めやがってええええ、と言っているように聞こえなくもない。

軍人は男の方へ向き直り、わずかに口ひげをゆがめてみせた。
ほれみろ、やっぱり違法な積み荷じゃないか。残りの二つも開けて調べなきゃなあ。
顔面蒼白になった行商人は、ほとんど泣きつかんばかりにして軍人に取りすがった。

ちょちょちょっと待ってくれ。
羊が入っとるのは一つだけなんだわ。もういないからさ。いやほんと。まじで。
なあ、開けんでくれよ、頼むよ!
おいちょっと…

バタン!
べえええええええ。

ひああ!
やめてくれえ。
まじでやめて。
な、頼む。
開けな…

ガチャン!
べえええええええええええええ。

軍人はあくまでクールに、行商人の必死の説得などまったく意に介さず、残り二つのトランクを次々と開けてしまった。
あっという間にそこいら中が右往左往する羊だらけになり、行商人は額を押さえて天を仰いだ。
黙示録的にシュールな絵だった。

職務を忠実に実行した軍人は、うなだれる行商人に何か一声かけてから、踵を返した。
運が悪かったな。
そうして、彼はバスにゆっくりと乗り込み、それぞれの乗客のIDのチェックに取りかかるのだった。

やがて、混乱を極めていた羊達も落ち着きを取り戻す。
行商人は肩を落としながらも羊達を先導して、砂漠の方へと歩き出した。
こんな右も左も不毛の大地に行くあてなどあるのだろうか。

羊をバスで運ぶのはイリーガルなんだ。
隣の青年がそう教えてくれる。
そりゃそうだろうよ。

月明かりも届かない闇の向こうへ18匹の羊達が遠ざかって行く。
それらは白い靄のようになり、その内に白い点になり、やがて闇の奥へと消えた。
気の毒な行商人と、もっと気の毒な羊達に、この先ささやかな幸運が訪れる事を祈りながら、僕はいつまでも夜の向こう側を眺めていた。



後年、ウズベキスタンを旅している時に、僕は同じような光景に出くわす事になる。
ただし今度は羊ではなく、2匹の黒牛だった。
牛のオーナーは(というかなんというか)何とかトランクに押し込めようとするのだが、牛の方もびびってしまって全然言う事を聞かない。
さすがに牛には馬力があり、というか牛力があり、四つ足を踏ん張って必死に抵抗する。
羊のように抱え上げて運ぶ訳にもいかない。恐怖のあまり、道路にぼたぼたと脱糞する。
あーあ、という思いで僕は、哀れな牛達が鼻輪を引っ張られ、ケツを棒っきれでしばかれながら、無理矢理トランクへぶち込まれる様を見物していた。
どこからともなくドナドナが聞こえてきそうな、シュールな絵であった。

やれやれ。
中で小便を漏らして、それが僕の荷物にしみ込んだら嫌だよなあ。






















03:28:11 | ahiruchannel | |
Comments

stagger-lee wrote:

そんなシュールな現場を目撃してみたいもんです。
18頭の羊はその後野良羊になっちゃったのかなあ??
11/29/09 23:47:06

ahiruchannel wrote:

>>stagger-leeさん

とてもじゃないがクエッタまで歩いて帰れる距離ではなかったですね。
羊は野良羊に、行商人は野良行商人になっちゃったんだと思います。
11/30/09 01:49:35
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